(いつものごとく、自動翻訳対策で、ちょっと読みづらいかも。また、今は一段落していますので、どうぞご心配なく。)
去年の夏頃から、もう数え切れない位、ぶつかってきた。一番の原因はあるこおる。でも、その前の色々な傷についても。 喧嘩しまくり、嫌になるくらい長く話し合って、まずは「お互いが全く違う考え、解り合えない」という、その隔たりの絶望的な大きさが判った。それはそれで大進歩。夫婦なんて他人なんだし、国際結婚だと根っこの文化も違うのだし、考えが違うのは当たり前。そこで投げ出して「やっぱり別々の道を行こう」というのも一つの手段で、それもかなり真剣に考えた。
でもその後、「相手の言動の何に傷付けられたのか」をお互いに言語化する事で、少しずつ相手の気持ちが理解できるようになってきた。飽くまでも理解だけで、自分がそれに同意する訳ではないのだけれど、相手が何を考えてそういう言動を取っているのかという理由が腑に落ちるだけでも、全然違う。
自分自身の弱点とか欠点とかも改めて気付かされ、こっそり反省。そして、ちょっと小康状態になったり。
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離婚で子どもを手放す母親は、世間受けが非常に悪い。私自身、そんなの考えられない!と思っていた。
でも、「子どものためになるのなら、自分が我慢して手放す」という事もあるのだと、自分がその立場になって初めて思い至った。
昔は、何が何でも私が親権を取る気だったけれど、子ども達も大きくなり、子ども達が私を選ばないのなら、それはそれで仕方がないと思うようになった。
実際、のんでいない時の彼は、私よりもいい親だと思うもの。
「子ども達は、君の事を怖がっている」
「君は子ども達を『いい子』にしたいだけ」
「子ども達は僕について来る」
などと言われれば、じゃあ子ども達の気持ちを尊重して、私は我慢しようと思うけれど、子ども達は「ママに捨てられた」と思うんじゃないだろうか。
子ども達の希望に沿うように、決めさせてあげたい。でも、自分で決めさせるのは残酷。選べる訳がない。
それに、もし「好きなようにしていいよ」と言われたら、「ママは自分の事を手放しても構わないんだ」と思うかも知れない。
いや、心臓を貫かれるくらい構うけれど、それでも本人がそうしたいのなら私は従うよという気持ちなのだけれど、そんなの伝わらないだろうな。
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上の下書きをしたのが、今年の3月頃。
その後、更に更に、ジェットコースターのように上がり下がりを繰り返した。
依存症などは、遺伝ではなく学習だと私は思っているので、そういう親の姿を見て育つのはよくないと思う。村人や友達の目もある。
言う事が二転三転したり、約束を守らなかったり。
当番医などで私が不在の時だけは絶対にとお願いして出ても、やっぱりつぶれていてこぐま達の御飯がない、なんて事もあって、連絡を受けて私が絶句すると、「だって、パパだから」・・・そういう諦めができてきたのも、よろしくない。
あんなに完全なパパっ子だった兄こぐまが、私の側につき始めた。
その成長が嬉しい反面、いや、父親を見限る事を学習したって、よくないよね。
じゃあ何故それでも離婚せずにいたかと言うと、一番には「それでもパパが好き」という子ども達の愛情を否定したくなかったし、子ども達から父親という存在を奪いたくなかった。逆に私が出て行くのでは、心配過ぎるし。
暴れるのを、兄こぐまが私を庇って間に入り、「ぼく、あなたの息子だよ!」と優しく抱き締めて宥める位だもの。
妹こぐまにも「パパとママ、両方いて欲しい」と泣かれてしまったし。
また、絶対的強者である私が弱者を切り捨てるという行為も、それはそれで学習させたくなかった。
子ども達にとって一番いいのは、どの道だろう、と、何度も何度も自問した。
入院治療とか、安易に提案されるけれど、それができて、且つそれで解決されるものなら、とっくにやってるわ。
ちょっと難しい薬を私が処方してきた事もあり、私が切り捨てたらもう生きる事を諦める可能性が高かった。自分が愛して切り捨てた人のお葬式なんて、一生引き摺るに決まっていて、私自身もなかなかそこまでの覚悟ができなかったし、こぐま達にも大きなトラウマになってしまう。
はっきり言って、自分がこの世からおさらばする方が、ずっと楽。なりたくて強者になった訳じゃない。弱者でいたなら、こういう悩みはなく逃げられたのに。
でも、火事を起こされるんじゃないかとか、もし何か騒ぎを起こされたら妻である私にも責任が問われるかもとか、更には薬を処方している私の医師免許や開業許可も脅かされるかもとか、そこまでいかなくとも「家族すら助けられなかった医者」という評判になるかもとか、本当に薄氷を履む思いで生きていた。
また、子ども達に向かって、彼の事を悪く言っている自分に気付き、ぞっとした。それ、一番あかんやつやん!
正直、どん底の時には、愛なんてもう感じられなかった。と言うか、よったときのあの目つきが本当に嫌で嫌で、もう写真すら見たくなかった。
でーすいして家のどこかで倒れている事もしょっちゅうあって、怪我をしたり低体温症になりかけていた事もあり。息をしているか寝室に覗きに行く、夜中に物音が聞こえたら「あ、まだ生きているわ」と安心するようなレベルだったのだけれど、もう何か、いっそこのまま終わっていてくれた方が楽かも、と思ってしまう位、ひどい状態だったの。でも、もしそれで本当に終わってしまっていたら、きっと薬の処方をしていた私の責任も問われる事になる。
私が「優しい」なんて、とんでもない。心の中はエゴや計算でいっぱいだったよ。
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雨降って地固まるどころか、ずぶずぶの泥水の中、何とか顔だけ出してもがき続け、やっと乾いた土地に辿り着いてハアハア息をしていたら、またひたひたと水が上がって来て波にさらわれ・・・というのを、もう十数年間繰り返して生きてきた。
日本で恩師に「きみ、今、幸せなんだよね?」と訊かれて、うっと言葉に詰まった。こちらに戻って来て、すぐにまた同じ事が始まり、繰り返され。
そして、それでも遂に別れを決心して、最後のプチ別居に出た。法的に離婚しても放り出さないとか、離婚はしなくても別居にするとか、色んなやり方があるから、その辺は後でゆっくり考えればいいから、兎に角別れよう、と。
それで戦って出た夜、寝ていたら、のしかかられて首を絞められそうになる夢を見て、目が覚めた。目が覚めてから、それが夢だったと気付くまで、暫くかかった位、リアルだった。そんな事、本当に思いもよらない、聖人のような人だったのに、こんな夢を見るようになったら私達もうおしまいだわ、と、そこで悟った。
のだけれど、暫く後、心から謝罪され、初めて(!)約束された。
今迄、仏の顔も三度までどころか、もっと何度も何度も、信じて赦しては、あっさり裏切られる事を繰り返してきたので、「いい加減懲りようよ、私!」とも思ったけれど、今回は初めて心がこもっていたので、やっぱりそれは踏みにじらない事にした。また自分が馬鹿を見るかも知れないけれど、まあ、もう一回だけ、本当にラストチャンスで。
そこからもう、長い長い時が経過したような気持ちだけれど、実はやっと一週間。それをこれだけ長い安定と感じているという事は、今迄それだけ短い周期で「もたなかった」という事。
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それから更に3週間が過ぎました。
前も、トンネル抜けたと思ったら抜けていなかったし、オオカミ少年みたいで、なかなか出す気になれなかった。けど、そろそろ出しても大丈夫かな。
皆様、ご心配、本当にありがとう。
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と書いたのが6月。しかし、そうは問屋が卸さなかった。ま、そうなるよね。(続く)
追記:
すみません、私の書き方が悪くて誤解を生んだようです。私にも子ども達にも、暴力はふるわれていません!
私がして欲しくない事をしようとした時に止めようとして、とか、私が証拠動画を撮ろうとして、揉み合いになる事があっただけです。