2024/08/24

Vogtsbauernhof(3)黒い森の林業


黒い森は元々原始林で、昼間でも暗いので「黒い森」と呼ばれていた。今は針葉樹のみの森が多くなっているけれど、それは伐採し過ぎて後から植えたもの(ナポレオンの命令による植林もあり)。元々一番価値があったのはドイツ樫で、これはドイツのシンボルにもなっている。

ヨーロッパが大航海時代で植民地を作りまくっていた頃のドイツは、植民地どころか分国で国内で揉めていたので全く力がなく、木材の売り先は栄華の極みの真っ只中のオランダだった。アムステルダムの港町や船の大部分は黒い森の木材からできていたと言われている位。




19世紀になって鉄道ができる迄、輸送手段は馬車牛車位しかなかったので、売り物の材木で筏を組んで、それに乗ってライン川を下っていったのだ。
もしそこにライン川がなかったら、そして川下に栄華のオランダという買い手がなかったら、黒い森は栄えなかった訳だな。




黒い森のあたりは
まだ急流なので、小さな筏を列車のように繋ぎ、一両ごとに人が立って筏を操る。これは保存会があって、今でもお祭りに実演したりしている。

下流に行って川幅が広がると、筏をどんどん大きく組み直し、最大で長さ600m、幅80mにもなったとか。
黒い森からアムステルダムまでは約700km、東京から青森くらいの距離。命懸けの長旅による一攫千金のような感じだったのだ。




山から伐採した木は、川のある谷底まで滑り台のようにして落とすのだけれど、落ちる木材は最大時速70kmにもなり、木が跳ねたりする事もあり、これまた事故が多かったという。

信州に住んでいた時もつくづく感じたけれど、気候が温暖で野生の果実があり、海で簡単に魚が獲れるような南国とは、性格が全く違うのよね。
それで、黒い森の峠を越えるとアルザスの豊かな農地が広がっていて、気候は温暖でワイン畑があり、「ああ、そりゃ欲しいわ」という感じ。

ライン川左岸もそうだけれど、この辺りはフランスと激しく取り合いを繰り返してきて、夫の祖母の方言にフランス語が混じっていたり、大戦時にはフランスが見せしめのように報復した土地でもあり、色々と複雑です。





4 件のコメント:

  1. 最後の授業のようなことは実際にあって。
    何度もの戦争でアルザスからパリに一家で逃げてきた隣人がいました
    戦争が終わると親は帰るのですが。子供たちだけが勉強を続けるために残ったと言われてました

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    1. fuskさん、こんにちは。
      そうなんですよね。アルザスだけでなく、ヨーロッパのあちこちで、実際に逃げて来た人と今でも出会います。
      「最後の授業」、小6で読んだ当時は凄く心に残った話しなのですが、今になって思い返すと、「アルザス人はフランス語でもドイツ語でもなく、アルザス語で生きたかっただろうなあ」と思います。

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  2. ドイツとの国境にあるアルザスとは、複雑な歴史があるよね。
    奪い合いで争った地なんだなぁ。

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    1. mさん、こんにちは。
      夫の祖母は、この辺りがフランス軍に占領された時、フランス兵が食材を持って家に入って来て調理を命じられたそうです。そのレベルの話しで済んでよかったねえと、孫一同。

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